松永の概要
松永は小浜市の東部、北川中流左岸とその支流である松永川流域に位置します。国宝明通寺をはじめ三番の滝、茶臼山城跡、法雲寺(すり鉢やいと)面山和尚の碑、太興寺古墳群、日枝神社、桜神社白鬚神社古墳、日吉神社など、豊な自然と文化遺産に恵まれた歴史のある地区です。
人口 1,300人余り、世帯数 約400世帯で、東市場、太興寺、平野、上野、四分一、三分一、門前、池河内の8区があります。
松永の由来
松永という地名は、平安時代の古文書「続日本紀」に、「仁明天皇の承和己未年(839年)、紀松永(きのまつなが)を若狭国守に任命する」という記述があり、さらに「東寺百合文書」に「松永保内恒枝名田」(大冶元年・1126年)という記載があることから、平安時代末期には確実に存在し、その由来は「紀松永」に求めることができるようです。
また、松永地区の中央にそびえる茶臼山城は松永谷の入り口につくられていますが、その構造はとても簡単なものであり、比較的古い時期に短期間で築かれた山城と考えられます。
各地区の紹介
東市場
松永川の最下流に位置し、丹後街道沿いに発達した集落です。地名の由来は、遠敷市庭(いちば・現在の「市場」)の東に市が立ったことによります。農村部にありながら商工業が発達した区でもあります。また、この集落には大工が多数住んでいたことも記録されています。
太興寺
松永谷の入り口東側に位置し、丹後街道とそれに直交する道路に沿って発達しました。記録では「躰興寺」と書かれたものが早く見られます。現在の集落の地下には「太興寺廃寺」という古代のお寺の遺跡があり、この区の地名はそこから 来ていると考えられます。また、集落北東には市指定史跡の太興寺古墳群があります。
平野
北川中流左岸、伊曽畑山の裾野に位置し、丹後街道とそれに直交し野木へ向かう街道沿いに発達した集落です。この区では松永で最も早く人の定住が確認されており、弥生時代後期(約2,000年前)の遺跡が集落の下に存在します。また、JR新平野駅の東側にある白鬚神社前方後円墳は、上中町脇袋から西へ続く若狭の王墓の最後の古墳にあたると考えられています。
上野
松永川中流左岸の扇状地上に、お寺を頂点として集落が形成されています。集落北側には曹洞宗屈指の学僧で空印寺元住職端方面山が開いた曹洞宗永福庵跡があり、現在は杉田玄白の父杉田甫仙による石碑が建立されています。
また、大正から昭和初期にかけては区をあげて養蚕を行っており、池河内と並び松永村の二大産地となっていました。
地元の農家や生産組合が育てた松永のおいしいお米や野菜を販売しています。
松永めぐりのちょっとひと休みの「村の駅」。
7月には「収穫祭」、12月には白ネギの「とれとれ市」を開催しています。
直売所周辺にはハスやショウブの畑があり、水車の回るせせらぎ水路があります。
お買い物ついでに散策してみては…。
小浜市上野44-37 TEL 0770-57-1032 営業時間 9:00~14:00
四分一
古文書には「四分市」とも書かれており、松永川中流右岸に位置します。当集落は区内南の紅梅谷にあったものが現在の位置に移ってきたとされています。
集落の北側にある法雲寺では毎年7月1日の夜明けに「すり鉢やいと」の例祭が行われています。また、このお寺の地蔵菩薩坐像は平安時代の貴重な仏像です。
三分一
古文書には「三分市」とも書かれており、松永川中流に位置します。明通寺に残る古文書では三分一に先行して「寺野」の村名が散見され、その成立には明通寺と深い関わりがあったものと思われます。
門前
松永川上流左岸に位置し、明通寺門前に開けた集落であることからこの名前がついています。
明通寺は真言宗御室派の大寺で、福井県内唯一の国宝建造物(本堂・三重塔)を持つ寺として有名です。また仏像も本尊を含め4対が重要文化財の指定を受けており、その他の文化財も多く、若狭を代表するお寺といえるでしょう。
池河内
池河原とも記録されており、松永川最上流に位置します。その立地から近江との繋がりもあったようです。また、江戸時代になると小浜藩の森林資源管理を任されており、そのためか松永地区の中でも家屋敷が多いことがわかっております。