
松永村の誕生
明治維新後の廃藩置県で小浜県、敦賀県、滋賀県と変遷し、明治14年(1881)に福井県となる。松永村が誕生したのは、明治22年(1889)4月1日。当時の人口は329世帯、1,628人(男性806人・女性822人)。
松永小学校の誕生
明治6年(1873)9月27日、太興寺の栄松寺を借りて松永8村の総合公立学校として発足。啓心校と命名。翌7年3月に従善校(池河内)、作民校(前門)が独立。当初は、句読、習字(読み書き)の2教科。明治14年12月に小浜の酒造を購入して、太興寺区内に独自の校舎を建設。明治25年には従善校、作民校の2校を廃止して啓心小学校の分教場となる。
産業の育成
農業を基幹産業としながらも、林業の育成、養蚕に力を入れる。育苗園をつくり実費で苗木を配布したり、養蚕では特定の家だけが大量の生産をするのではなく、村人一人ひとりの収入が増えるよう一世帯5匁以上の生産を奨励した。明治43年(1910)3月に池河内で信用販売購買組合を設立。(当時小浜全体で16組合)これを松永全体に広げることを決め、翌年、平野で組合を設立。
小浜線と新平野駅の誕生
大正6年(1917)6月の小浜線第4工区竣工と同時に新平野駅が誕生。新平野駅は小浜郡と並ぶ最も古い駅。
小浜市への合併
昭和26年(1951)3月30日の小浜町、今富、国富、遠敷、内外海、口名田、中名田、松永の8町村が合併。
人口35,386人、7,680世帯。松永においては、1,606人、338世帯。
台風13号の被害
昭和28年(1953)9月25日、台風13号で大きな被害を受ける。松永川で17箇所が決壊し、橋が流失。多くの田畑が土砂に埋まり壊滅的な打撃を受ける。
池河内の大火
昭和31年(1956)4月、池河内で大火が発生。松永の各区、遠敷、宮川などの近隣の消防団がポンプを大八車に乗せて駆けつけたが、火のまわりが早く集落のおよそ3分の1を消失。災害救助法が適用され、県内各地から支援物資が届けられた。
松永の伝統行事
◆春祭り
現在は、4月13日が「村祭り」の日で幟がたてられる程度。明治末期から戦後までは5月13日が祭りで学校は臨時休校。「場売り」という露店もでるなど一大行事であった。
◆田の神祭り
田植えが終わった後、「田の神」に五穀豊穣を願う祭りであり、子どもが御輿を担いで各家をまわる。
小浜市では北川流域だけで行われている。
◆その他
「六斎念仏」、害虫から米を守る「虫送り」の行事も行われていた。今も朽木村で行われている六斎念仏は「松永谷から伝わった」と言われている。